専門医の医師の求人/募集/転職 > スペシャルインタビュー >相楽 裕子 氏 / 横浜市立市民病院 感染症部 前部長


最前線で感染症に向き合って
相楽 裕子 氏
横浜市立市民病院 感染症部 前部長
1992年から2008年まで、相楽先生が感染症部部長を務めた横浜市立市民病院は、神奈川県下唯一の第1種感染症指定医療機関、横浜市下唯一の第2種感染症指定医療機関(1種よりも危険度の低い感染症が対象)、神奈川県のHIV診療拠点病院、熱帯病治療薬研究班の薬剤保管機関に指定され、市中感染症の中核病院としての役割を担っている。
初代感染症部部長として、感染症指定医療機関の役割を確立するまでに、相楽先生がどのような道を辿ってこられたのか、話を伺った。
内科、小児科勤務
私が高校を卒業したのは1959年です。当時、女性が仕事に就くのは一般的ではありませんでしたが、自分で仕事をしたいと思い、父と祖父が医師だったので、身近で見ていた仕事として医師を目指しました。東京医科歯科大学医学部卒業後は、父親が内科医で、身近に手本のある馴染み深い分野ということで、内科を選びました。同大学医学部附属病院インターン、医学部第一内科副手として、合わせて5年弱、内科で勉強しました。大学紛争が激化し、大学ではあまり仕事ができなくなったのと、将来開業を考えていたので、子供も診られるよう小児科での経験を積みたいと、東京都立豊島病院小児科に移りました。
転機の訪れ 1979年、感染症科へ
小児科に勤めて9年が経った頃、同じ病院の感染症科の先生に感染症科へ誘われました。元々、小児科は感染症が多く、私は内科でも血液内科で感染症を多く診ていたので、患者のマネージメントができるだろうとのことでした。
それまで、感染症科というと、赤痢やコレラ等、伝染病専門の先生がメインでした。終戦後、そういう病気は国内に多く見られましたが、その頃から、海外旅行に行って感染して担ぎ込まれる「輸入感染症」が多くなり、感染症科
が変わって来ていました。1976年には、アフリカのナイジェリアで発生したウイルス感染症“ラッサ熱”
にかかったアメリカ人と同じ飛行機に、日本人が乗り合わせ、3週間監視下に置かれるという出来事も
あり、感染症がグローバル化し、世界の感染症を診る時代になったと感じていました。
感染症に特化した方が専門性が高められることや、外国に興味があったので、「感染症科に来ると外国
に行けるよ」という言葉にも惹かれ、感染症科行きを決めました。感染症科の医師は、日本では無く
なった古い伝染病や新たに出現したHIV感染症の視察や研修に、海外に行かせてもらえました。
感染症科移籍当時は、患者さんから病気が感染するかもしれないという恐怖心もありましたが、
感染症科で働くうちに、きちんと対策をすれば、感染は防げるということが体得でき、
それが私の基本となりました。
1992年、横浜市立市民病院 感染症部部長を引き受ける
豊島病院の建て直しが決まり、どこかに移らなければならないという頃に、ちょうど横浜市立市民病院に感染症部(現感染症内科)が新設されました。
また、1994年には、横浜で、アジア初の国際エイズ会議が開催されることになっていました。その時にはHIV患者が沢山来ます。開催引受地として、HIV患者の具合が悪くなった時に診療できる病院がないと困るので、HIV診療ができる人を必要としていました。
日本で最初にHIV患者が出たのは1985年でしたが、私も87年にはHIV患者を診ていて、何人か経験がありました。伝染病もHIVも診療できるということで、声をかけて頂いたのです。
感染症指定医療機関としての試行錯誤
感染症科の役割を確立し、感染症指定医療機関としての役割を果たすというのが、横浜市立市民病院での私の一番の目標でした。
感染症は、患者を診るだけでは駄目で、きちんと感染対策をすることが大切です。
最初に取り組んだのは、見えない病気に対する「うつるかもしれない」という、職員の不安の解消です。見えない病気に対する不安を払拭しなければ、きちんとした診療ができません。病気は医師1人だけが診るわけではないので、看護師、検査技師、放射線技師といった方々に、機会をみては、こうすれば大丈夫とアピールしました。また、新年度等、新しい職員が入って来る度に感染対策を伝えました。
次に、各診療科の先生に協力をお願いしました。例えば、下痢はうつりやすいので、下痢の患者はまず、離れたところにある感染症外来に回してもらい、スクリーニングをして、大丈夫だったら、消化器科にお願いするといった具合です。
90年代初め、救急病棟に入院した患者さんが後で結核だとわかり、接触者検診を200名以上に行いました。こうなると大変です。夜間・休日の受け入れ先となる救急外来とは連携を密にし、感染症の疑いがある場合は、外に空気がもれない陰圧設備のある感染病棟に入院させてもらうようにしました。それ以降、感染事例は発生していません。
世界のどこかで感染症が発生したら、感染症指定医療機関には、次の日にも患者さんが来ます。その為、世界の感染症情報ネットワークには常にアンテナを張り、日々、情報把握に努めています。
SARS発生に全病院的対応システムを活用
2001年の9.11同時多発テロ後の炭疽菌騒動、2002年サッカーワールドカップ開催時の核生物化学テロ対策という局面に至って、それまでは感染症部だけで対応してきたことが、病院全体での対応へと変わり、アウトブレイク(感染症の急激な広がり)等緊急事態への全病院的対応システムを構築することができました。それで、2003年、SARS (重症急性
呼吸器症候群)発生時は、病院と行政が一体となってバックアップしてくれ、本当に助かりました。
SARSは非常に怖いというイメージがあり、出始めは大変なパニックでした。どこの病院も、SARS
の疑いがある人は診ない、ちょっと中国に行ってきたと言ったら、もう一切診ない。 当院は、そう
いう時に、市が、まずはここに行きなさいという病院です。3か月で、6、70人診ました。
他の病院は皆断ったけれども、この病院だから出来たということで、看護師さん達は特に大きな達
成感を感じているように見えました。
99年の感染症法制定時、各都道府県に1か所、第1種感染症指定医療機関を指定することになりまし
たが、神奈川県は指定していませんでした。
SARS後、それまでは横浜市の第2種感染症指定医療機関だった当院が、神奈川県全域で唯一つの第
1種感染症指定医療機関に指定されました。やったことが評価されたと、皆が納得し、モチベーショ
ンも上がりました。
優秀なスタッフに支えられた院内感染対策マネージメント
現在、感染対策は重要だということで、それができる医師、看護師、薬剤師、検査技師にInfection Controlという資格を認定しています。当院には感染看護の大学院を卒業した看護師がいて、資格ができる前から、Infection Control Nurse(ICN)の役割を果たしてくれました。
彼女は、院内の看護師を教育しまとめてくれ、私にも随時情報をくれました。緊急時も、医師が逐一動かなくても、病棟ごとにいるリンクナースという役目の看護師からICN に連絡が行くよう、アウトブレイク対応が出来ているので、それでコントロールできれば、医師への報告は後でも構いません。
感染対策上問題となる病原菌が出るとすぐ検査技師は連絡をくれましたし、薬剤師も大変重要な役目を担ってくれました。院内感染対策では、抗生物質の使い方が非常に大事です。乱用すると耐性菌ができます。そういった耐性菌対策を薬剤師が的確にしてくれました。私の仕事は、情報をもらった時にどうするかを判断することでした。優秀な専門職がそれぞれの立場で助けてくれたので、私は院内感染対策を統括できたのです。
退職後の今
現在は豊島病院、横浜市立市民病院、横浜市立みなと赤十字病院、国際協力機構(JICA)で、非常勤や顧問医をしています。
豊島病院は週2回、他は週1回です。診療もしていますが、メインは医療コンサルテーション、つまり、医師や看護師からの診療相談です。
JICAでは、海外に派遣中の隊員3、4000人の健康管理は、主に看護師が現地で行っています。派遣前の隊員への感染症研修と、派遣中の隊員に、狂犬病にかかるリスクのある動物咬傷やマラリア等、何か問題が起きた時に応対することが、私が国際協力人材部健康管理センターで行っていることです。
全ての診療の基礎
弊社代表・徳武と相楽先生
感染症は全ての診療の基礎となるので、ぜひ学んで頂きたいです。近頃は感染症に関心をもつ先生が増えてきました。日本感染症学会が教育機関として認定している研修施設で勉強する方法もありますが、アメリカで感染症を勉強された第一人者のおひとり、青木眞先生が、若い先生向けに情報発信やセミナーをされていますので、自分の好きな診療科で勉強しつつ、そういうセミナーに参加しても良いと思います。実際に診療現場で働きながらセミナーに出席すると、自分の病院でやっていることが正しいかどうか等もわかり、勉強になるはずです。
(取材・文:うえだまゆ)
(2012年2月)
相楽 裕子 氏 (横浜市立市民病院 感染症部 前部長)
プロフィール
1965年 | 東京医科歯科大学医学部卒業 |
---|---|
1965年 | 東京医科歯科大学医学部附属病院インターン |
1966年 | 同大学医学部第一内科副手 |
1970年 | 東京都立豊島病院小児科医員 |
1979年 | 同病院感染症科医員 |
1980年 | 同病院感染症科医長 |
1992年 | 横浜市立市民病院感染症部部長 |
2008年 | 同病院 退職 |
現職(非常勤・顧問医)
東京都保健医療公社豊島病院感染症内科
横浜市立市民病院感染症内科
横浜市立みなと赤十字病院総合内科
独立行政法人国際協力機構国際協力人材部健康管理センター
専門領域
臨床感染症学(腸管感染症、輸入感染症、HIV感染症)
資格等
医師免許 医学博士
日本内科学会認定内科医
日本感染症学会認定感染症専門医・感染症指導医・ICD(Infection Control Doctor)
日本化学療法学会認定抗菌化学療法指導医

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