専門医の医師の求人/募集/転職スペシャルインタビュー >小林 奈々 氏 医療法人めぐみ会 自由が丘メディカルプラザ副院長

スペシャルインタビュー
小林奈々

娘に憧れてもらえるような医師人生を送りたい

小林 奈々 氏

医療法人めぐみ会 自由が丘メディカルプラザ副院長

現代においてもなお女性医師が結婚し、産休を取得し、子育てをしながら仕事を続けるのは難しい。今回は自由が丘メディカルプラザ副院長の小林奈々先生から、外科分野での女性医師の生き方や、産休から医療現場へ戻る過程での話など、女性医師の参考になるお話を伺った。

父親の背中に憧れ医師の道へ


現在は消化器科医として活躍する小林先生。医師を目指したきっかけについてお聞きした。
「我が家は医者一家で、父も祖父も叔父も医師です。幼い頃からなんとなく医師になるんだろうと思っていました。
はじめは医院(クリニック)であった実家は、やがて病院になり、規模が大きくなっていきました。常に患者さんのために忙しく働く父の姿を見てきました。もちろん父と過ごす時間はあまりないのですが、それが寂しい気持ちもありつつも、24時間365日呼ばれたらすぐに病院に向かう父の背中はカッコイイなと思っていましたね。父のような医師になりたいなと憧れました。ただ、どこか漠然としたものでした。医者になることが、どれだけ大変か見えていなかったんですね。ようやく現実が見えてきたのが、高校に入り医学部を目指した時です。その頃は、勉強もあまり熱心にしておらず、医学部に入る学力はなかったんです。反抗期も重なり「医者にならない!」「親の敷いたレールには乗らない!」と言っていたんですよね。実際は、医者にならないんじゃなくて、なれないんですけど(笑)
それで、別の道に興味を持つようになったんです。
『Make A Wish』という難病と闘う子どもたちの夢を叶える世界最大のボランティア団体があるのですが、その活動がNHKで放送されていたんですね。そこに心臓に疾患がある男の子が出演していたんです。その子は夢を叶えてイルカに会いに行ったのですが、イルカが男の子に会った瞬間、彼の胸をツンツンとつついたんですね。それを見て、感動したんです。イルカはその子に心臓疾患があることなんて知りませんから、何か感じるものがあったんでしょうね。別の道に興味とは、イルカの研究に対してでした。
その道に進むなら、しっかり勉強したいと志望校のレベルを上げました。ただ、イルカについて調べているうちに、やはり興味があるのは人のことと気付いたんです。その後も学習に取り組んでいましたし、医学部に入れるまで学力も上がり、医師を目指しました」
その後、本当にやりたいことが見えてきた小林先生は医師の道を邁進していく。

外科を極めるべく、がむしゃらに走って


「大学時代に興味が湧いたのは、やはり消化器でした。父も消化器外科医なので、身近だったのでしょう。ただ、その頃すでに兄が消化器外科医になっていました。私が消化器外科にならなければいけない環境ではなかったんですよ。私は私で一度視野を広げて、いろいろな分野を見ながら決めようと思いました。
はっきり外科医になろうと決めたのは研修医になってからです。スーパーローテートなので、一年目はメジャーな科を総合的にまわります。その時に、外科の虜になったんですね。外科は自分の手で疾患を扱うのでわかりやすくとてもクリアです。そこに魅力を感じました。あとは、手術を無事に終え、その後病院から退院していく患者さんたちの後ろ姿にも感動しましたね。もちろん外科はハードですし、休みがとれないこともあれば帰る時間も遅くなることも多い。でも、やりがいがあると思えました。
ただ一年目は、がむしゃらに走っていましたから外科医として一生続けていけるかまでは考えられなかったんです。そこで研修医二年目は自由選択で外科を選択しました。より長い期間を外科で実習できるので、自分の限界まで働いて、それでもやりたいと思ったら進もうと決めたんです。
実際に働いてみたら、勤務はとても楽しかったですね。一番下っ端な私を先輩医師たちが、チームの一員として迎え入れてくれるんです。もちろん、厳しいんですよ。怒鳴られたり叱られたりもしますが、それも愛がありました。チーム一丸となって患者さんに向きあえるのは外科の魅力だと思いましたね」
そこからは外科医の道を極めるべく、いくつかの病院で学びを重ねてゆく。
「三年目に日大消化器外科に入局しました。最初は肝臓班に配属されたんです。忙しかったのですが、やはり仕事は楽しかったですね。特に手術はやりがいがありました。
若手の医師に割り当てられる手術は、急性虫垂炎か鼠径ヘルニアが多かったので、初めの頃は虫垂炎の手術適応の方がいたら、すぐに立候補して担当になり積極的に手術を行っていました。
その後は、がんの手術なども少しずつ経験し、一年ほどした時に医局派遣で東大系列の公立昭和病院に行くことになったんです。先輩からは症例が多く医師としての経験が積める病院と聞いていたので、医局長に「行かせてください」と直談判をしました。やはり医師は男性有利の風潮もあるので、自分で成長のチャンスを掴みにいかないとダメだと思ったんですよ。それで頼み込み一年間行かせてもらいました。
プライベートなしで、がむしゃらに働きましたね。当時、ご指導くださった先生は東大出身の方でした。本当に良い方で私は日大所属でしたが、分け隔てなく対応してくださいました。女性男性も関係なしでしたね。厳しい面もありましたが、愛のあるご指導でたくさんのことを学ばせてもらいました。今でも本当に感謝しています。
また、公立昭和病院にいる頃は、後期研修医なので初期研修医の指導に当たるのですが、同病院の初期研修は人気が高く、いわば選ばれし者たちが集まるんです。やる気のある後輩に、先輩としての指導のしがいもありました。打てば響きましたね。ただ、打ち方を間違えると嫌になっちゃう先生もいて、どういう風に指導すれば彼らの身になるのかすごく考えました。それは結果的に、自分自身の勉強になりましたね。
そういった素晴らしい経験をしたことで、任期を終える頃にはこちらでもう少し働きたいと思うようになりました。医局長に頼み込み一か月だけならと延ばしていただけました。研修期間は悲しい経験もしましたし、悔しい経験もしましたが、本当に勉強になりました」
公立昭和病院での研修を終え、その後は日大練馬光が丘病院(当時)に勤務、更に学びを深めてゆく。
「日大練馬光が丘病院は、難病と言われているクローン病や、潰瘍性大腸炎の症例が多かったので勉強になりました。当時は、外科の専門医取得に向けて経験を積むため、心臓血管外科もまわり心臓手術にも参加させていただいたんです。消化器系とはまた異なる外科のアプローチを見ることができたのも良かったですね。一方で手術の内容は違っても、たとえば指先の使い方などで共通する部分もあり、学びが多かったです」

実家である父と兄のいる病院で得た学び


都内の病院でキャリアを積んだ後、名古屋にある実家の病院を手伝うことになる。
「日大練馬光が丘病院が事情により閉院した頃、実家の病院で診療している兄から「人手が足りないから、手伝ってくれないか?」と連絡があったんです。その頃、病院は父が院長として、また兄は臨床で医療現場を取り仕切っていました。病院はやや僻地にあるので、ドクターも定着しにくい状況が少なからずあります。兄から連絡が来た時は、それまでいらしたドクターがちょうど退職してしまった頃だったんですよ。
エリートの道を歩んできた兄が手伝ってほしいと言うのは、本当に大変なんだと思いました。公立昭和病院での勤務を経て、地域医療の大切さを学んだ時期でもあり、実家に戻ることにしました」
実家に戻った小林先生は、これまでの勤務経験とはまた違った経験をすることになる。
「私立の病院なので、症例の幅がものすごく広いんです。食道、胃、大腸、直腸、肝臓、膵臓、乳腺、肛門もすべてを担当して手術もするんですね。もちろん救急対応もあって、ウチはドクターカーも所有しています。ドクターカーは、例えば事件性のある案件にも出動するんです。現場に行くと、「まだ犯人が捕まってないから、気をつけてください!」と言われたことがありました。その時は、警察の方に周りを守ってもらい、患者さんに向かって一目散に走っていきました」
これまでと異なる経験もし、また外科医である兄と一緒に仕事ができたことも大きかった。
「兄は体が大きくてがっしりとしていますが、手術となると本当に細かい部分も綺麗に切って、縫って進めていくんです。それがすごく勉強になりましたね。
兄と一緒に手術をすると、やはり兄妹だからこそわかることがあるんですよ。外科の手術は、医師同士の掛け合いが重要ですが、他の先生との場合には、お互いに慣れるまで呼吸が合わないこともあります。でも、兄妹だと言わなくても、「あっ、ここだな」「今こうしてほしいんだな」とすぐにわかるんですよね」
その後、ご実家で三年間の勤務の末、小林先生は東京へ戻った。
「実家の病院では勤務の先生方も増えましたし、私の役割は果たせたと東京に戻りました。それでも、その後も東京~名古屋を行き来していたんですよ。本当にありがたいことに「先生行かないで」、「先生じゃなきゃダメ!」と言ってくださる、かかりつけの方もいらっしゃったんです。毎週1~2日はかかりつけの患者さんを診に帰っていました」
実家で経験した出来事や、スキルは東京に戻っても活かされている。

副院長として勤務後、産休へ

東京へ戻った小林先生は、めぐみ会 自由が丘メディカルプラザの副院長となる。
「外科医であることがメリットとなる医院を探していたんです。ひとつは肛門の手術が行えることも条件でした。実家にいた時は肛門の手術も多かったので、スキルを活かせると思いました。肛門疾患の患者さんは女性にも多く、とくに経産婦さんは、結構みなさん痔を持っていらっしゃると思います。やはり女性の患者さんは、「女性医師が担当してくれて良かった」と言ってくださることもあり、ニーズがあります」
小林先生は副院長として三年半の勤務の後、産休を取得。現在は診療にも復帰すると同時に、新たなことにも挑戦をしている。
「父は病院を兄に譲り、今は在宅診療をしています。もともと、いつかは在宅医療をしたいと話していたので、夢を叶えたんです。私も在宅の仕事を、時々手伝っています。
父はよく最期は聴診器を持って死にたいと言っていて、今年で75歳になりますが生涯医師であることを目標にしています。有言実行できるのは素晴らしいですよね。そういう人物が、身近にいるのは、本当にありがたい環境だなと思いながら一緒に働いています」
小林先生の今後についてもお話を伺った。
「今、めぐみ会は、自由が丘で在宅診療をはじめています。そこでも在宅の知識を活かせると考えています。プライマリ・ケアも今後ますます重要になってくると思いますし、それを実行しながらも、自分の専門である外科分野でも活躍できる環境に身を置きたいですね。クリニックでの外来診療もしつつ、在宅診療もしていきたいです。在宅にどう関わっていくかは、父がいつまで健康でいてくれるかにもよりますね。今は父も元気ですし、自分の納得が行くまでは東京で続けたいなとは思っています」


小林 奈々氏と弊社・代表 徳武

医師としての研鑽を続けてゆく小林先生、最後に若手医師に向けてのメッセージを伺った。
「当時、まだ私が浪人生だった頃の話ですが、休みで実家に帰っていた時に大きな出来事があったんです。父は警察医をしていて、東名高速道路で起きた事故のご遺体回収を担当することになったことがありました。父に「いっしょに来るか?」と聞かれ「行きます!」と答えました。
現場に着くと、ご遺体は事故の影響でバラバラになっており、右足がどこにいったかわからない状態でした。「脚を探せ!」と言われ、事故現場をまわり発見したのが私でした。ご遺体の一部を持ち上げた時、とても重かった。人の命の重みを実感したんです。ずしっと胸に響くものがありました。命の重みを感じられる医師になりたいと思いました。それが医者になりたいという思いが強くなった瞬間だったんです。
こういった経験は、なかなか身近にあることではないかもしれませんが、医者になると一人一人の命の重みや、人生を背負う時は必ず来ると思います。その時に、それをそれとしてちゃんと感じられる人間になるためにも、多くのことを経験してほしいですね。
残念ながら、資格が取れるから成績が良いからという理由で、医者を目指す方もいらっしゃいます。もちろん、それぞれの選択なのでノーとは言えませんが、何か熱いものを持った方々に医者になってほしい。
また、後輩の女性医師の方にも伝えたい思いがあります。私が外科に入局した時に、何人かの患者さんに「先生がいてくれて良かった」と言われたことがあるんです。当時、外科は女性が少ないので紅一点でした。苦しいし、大変だし、叱られるし、私は、何でここにいるんだろうなと思う時もあるんです。でも、患者さんの「先生がいてくれて良かった。女医さんがいてくれて良かった」という一言で自分の存在意義を感じています。
まだまだ医師社会は男社会です。女性は大変な面もあると思いますが、私自身、あなた自身がいる理由は必ずあります。それを信じてお互いに歩んでいきましょう。
患者さんの言葉に救われながらも、まっすぐに進んで来た小林先生。その原動力はどこにあるのだろうと思った時「私が幼い頃、父の背中を見ていたように、娘にも私の背中を見て素敵だなと思ってもらいたいですね。そういう人生を堂々と歩いて行きたいです」との言葉をいただいた。
今は、娘に誇れる医師人生を送るというのが、小林先生が医師として活躍している大きな原動力の一つになっている。その強い意志は未来へとつながっていくに違いない。

(取材・文/舟崎 泉美)

小林 奈々(医療法人めぐみ会 自由が丘メディカルプラザ副院長)

プロフィール

日本大学医学部卒業

所属学会

日本外科学会 外科専門医

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佐藤 理仁 氏/さとう埼玉リウマチクリニック院長

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