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スペシャルインタビュー
	田中 健

心配や反対を振り返るな! そこで得たものとは

田中 健 氏
医療財団法人 神尾記念病院

全国でも数少ない耳鼻咽喉科の専門病院である医療法人財団 神尾記念病院。
1911年(明治44年)に東京・神田で開業して以来、耳・鼻・のどの一般的な病気から、難治性の高い病気までを対象に治療を行っている。日本で最も伝統と歴史があるとともに、 最大級の臨床実績を誇り、全国から患者が訪れる信頼の病院だ。
「全く普通の家庭で生まれて、両親が医者というわけでもないんです。地元の福井医科大学(現在の福井大学医学部)に入ったというだけで、昔から耳鼻科になろうとか医者になろうという思いは無かったです」と語る田中先生。耳鼻科に入局したのも先輩の薦めがあったからだと言う。しかし、今の田中先生からは耳鼻科医療に対する熱意が感じられ、たまたまと言う言葉が信じられない。
今回は神尾記念病院にて第一線で活躍されている田中健医師に中央に出てきて感じたことや今後の展望についてお話をお伺いした。

初めて外の病院に行き、大学以外の先生に感銘を受けた京都時代

「医者になって3年目に外部の病院に出たんですね。いわゆる派遣先です。京都大学関連病院で福井赤十字病院(日赤病院)でした。耳鼻科の常勤医が3名おり、上司2名が京都大学の先生でその下が僕だったんです。そこでその先生方に感銘を受けたんですよ。
京都大学は日本全国に関連病院があり、毎日オペがとにかく多いという病院もあれば、甲状腺ばかりやっている病院も多くあると聞きました。そういう話を聞くと、やっぱりオペ治療ができるのはいいなと思うんですよね。福井大学は医大の中では新設校なので残念ながらまだ関連病院が少ないんです。福井の北には金沢大学があって、南には京都大学があって、福井県にある大病院はその2大学が関連していることが殆どです。そのため福井大学の関連病院は規模が小さく、耳鼻科は1人医長での勤務が多くなります。1人医長だと、自分の実力以上の何かを学ぶことがとても難しい。誰かに教えていただくこともないですし、リスクをとってオペを行う機会も当然少なくなります。

日赤病院で耳鼻科医が3名という環境は非常に良い経験でしたと語る田中先生。出身校以外の医師の姿も間近で見ることができたこの経験が後に上京するきっかけとなったようだ。

医者って様々と肌で感じることのできた大阪時代

「医者になって5年目に大阪労働衛生センター第一病院に派遣されました。そこは京都府立医科大学の関連病院でした。5年目のまだまだ未熟な医者が今度は県外で勤務するわけです。
周りは知らない先生ばかり。耳鼻科医としての腕もまだまだでオペもできない。難解な症状の方が来ても、他の誰かにフォローしてもらえることもなく当時は厳しかった。そういったことが重なって大学に戻りたいと願い出ました。しかし、当時はちょうど教授選の真っ只中で医局がバタバタしてまして、、、そんな人事は当然できないと。
それならと日赤病院の部長に京都大学に行かせてほしいと申し出たんです。是非来なさいと言ってくれました。福井大学も人事的に大変な状況でしたし、今まで以上の経験やオペができる可能性のあるところへ行こうと決心しました。
ところが、その直後に大学の上司から私が教授になったら戻してやると言われまして。それを聞いて今の環境で頑張ることにしたんです。

その後、翌年には教授となった上司に大学に戻して頂いたと話す田中先生。当時は大変だったが振り返れば大阪労働衛生センター第一病院での経験は、決してほろ苦いものばかりではなかったと言う。
「医師としての腕は全然でしたが、様々な患者さんに自分一人でもなんとか対処する自信がついた」と得たものも大きかったことを語ってくれた。

医局を出ることを決めた最終的なきっかけとは

「その後、福井大学に戻って大学院に進学したのですが、ちょうどその頃に臨床研修医制度が導入され、都会の病院に人が流れ、地方大学病院への入局が激減しました。そうなると年を重ねても自分が一番下なんです。つまり研修医の仕事を経験年数が上がっても続けていることになります。日赤病院をはじめいくつかの病院を派遣で回りましたので、実力も少しずつ身に付き、もっと手術もしたいと思っていました。しかし現実はカルテ集めや、回診番ばかりで日常を過ごしていました。
その後、大学院を卒業し、次の派遣先病院へ。福井県の南部にある公立病院でした。半径50kmに大きな病院はありません。本当にシビアでした。外来もすごく忙しいですし、全科当直もあります。救急車も忙しい時は3台くらい立て続けに入るんですよ。耳鼻科は僕1人なので救急で耳鼻科の患者が来ると365日寝ていても呼ばれます。寝ていると救急車のサイレンが聞こえるたびにバッ!と体が起きたりもしましたし、自分の体に変調をきたすこともありました。
病院での診療自体は面白かったのですが、そこで1人医長をやっていても耳鼻科医としてのオペの機会は少なく腕はなかなか上がらない。医局にこの病院の現状はこんなに厳しいんだ、なんとかしてくれと申し出たんです。すると、あともう少し頑張ってくれたらそのうち、、、、という返答が返ってくるわけです。
これではもう大学にも戻りたくないと考えるようになりました。再び大学に勤務してもその後はまた地方の1人医長か、思い切って開業をするかの選択肢だと。
自分はもっとオペ経験を積みたい。
以前に京都大学に行くことを断念して以来、医局を去ろうとしたのはこれが2度目でした。今度は後悔のないように行動しようと思ったんです。

2度目の決意は固く、積極的に外界を見ようと決意し転職活動を始めることになる。

周囲の反対や心配を押し切り神尾記念病院へ

あるちょっとしたきっかけから神尾記念病院を知り、見学を申し込むことにしました。しかし、大学や上司に黙って行くのは良くないと思ったので、見学に行くことを告げました。「あちらは耳の手術で有名な病院だ。それに勝手に就職を決めるな」と。
これは困ったことになったと思いながらも見学に行きました。当時、院長をされていた神尾友和先生にお会いしました。
医局を辞める覚悟と、期待に見合わなかったらクビにしてもらってもいいから働きたいとお伝えしました。すると、是非にと快諾してくださいました。休職予定の方がでたため、4ヶ月後からポストを提供いただけることになりました。

新天地で働くと決めたとはいえ、すんなり転職できたわけではなかった。周囲からの反対も多くあったと言う。

地元に戻って周りに話をすると猛反対されるんです。いろんな先輩から『止めておけ』と電話がかかってきます。心配もしてくれていたと思ってはいますが。その他にあと1年を今の勤務先で頑張れば大学医局の後ろ盾のもと、転職先に出してくれるという話もありました。
でもその1年は、私の人生の中の1年です。4ヶ月後にたまたまポストが空くという幸運があったからこそで、1年後にはそれが有るのかもわからない。それに医局人事で行っても2年後には戻らなければならない。子どもの学校のこともあるので転校ばかりするのは気が引けます。そういう思いもあってお断りしました。
その後も大学のコネもツテもないところに行ってもオペなんかやらせてもらえないぞって先輩方から心配と反対の声をいただいて。その度にそうかもしれないと一瞬、萎縮するんですが、いや!やる気があって貢献すれば、オペはやらせてもらえると想い直すんです。僕の嫌いなことはコネとツテです。僕はコネで医者になったわけでも、医学部に入ったわけでも、耳鼻科医になったわけでもないですし、むしろ「やろう」と自分で進む気になったんです。

神尾記念病院での診療生活

「現在の神尾記念病院は僕みたいにフリーで就職した先生が多いです。いろいろな大学から先生が来ています。ですから心配することなく、安心して働くことができています。先生方もとてもフレンドリーで手術の指導も非常に丁寧にして下さるんですよ。そのおかげで、ようやく1人でできるかなあという感じにはなりましたね」
「東京に来る時は80%くらいの人に反対されていました。当時は結果的に地元の人間関係は途切れたような状態ですよ。でも、今となっては福井の医局の先生とは仲良いですよ。学会に行くと一緒に飲みに行ったりしますし(笑)。教授とも挨拶ぐらいはできるようになりました。」
笑顔で話す田中先生。なかなか誰もが同様にできることではないかも知れないが、こうすると自分で決めてやってきた今がある。

「大学の耳鼻科で教授と喧嘩して外に出たのは僕が初めてだったんですよ(苦笑)。最近では医局の先生方も一体どうなんだと私の現状に興味津々のようで、今を楽しくやってるよと言うとみんな羨ましそうにするんです」

耳鼻科医を目指す後輩へのメッセージ

弊社代表・徳武と	田中 健先生
弊社代表・徳武と田中先生

最後に今後、耳鼻科医を目指す後輩へのメッセージを伺った。
「いろいろなものを見ることが大切です。1つの視点にとどまっているのは、あまりお勧めしないですね。狭い視野にずっと居ると医者として自分がどれくらいの位置に居るのかわからなくなります。それを理解するには視野を広げたり、いろんな視点を持つことではじめてわかることがきっとあります。」

(取材・文・舟崎泉美)


田中 健 氏 (医療財団法人 神尾記念病院)
プロフィール
1997(平成9)年福井医科大学卒業
1999(平成11)年福井赤十字病院 耳鼻咽喉科
2001(平成13)年大阪労働衛生センター第一病院 耳鼻咽喉科
2002(平成14)年福井大学医学部附属病院 耳鼻咽喉科
2006(平成18)年公立小浜病院 耳鼻咽喉科
2008(平成20)年神尾記念病院
所属学会
医学博士
日本耳鼻咽喉科学会認定専門医
日本耳鼻咽喉科学会認定補聴器相談医
日本耳鼻咽喉科学会
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